「長年苦楽を共にしてきた社員に、自分の会社を託したい」
「でも、具体的にどう進めればいいのか、税金や手続きで気を付けるべきことは?」
日本の中小企業経営者の間で深刻化する「後継者不足」問題。親族に後継者がいない場合、多くの経営者が選択肢として考えるのが、外部の企業への売却(M&A)か、あるいは**社内の優秀な役員や従業員に会社を引き継いでもらう「従業員承継」**です。
従業員承継は、会社の理念や文化、事業内容を深く理解した人材が後継者となるため、円滑な事業の継続が期待できる非常に魅力的な方法です。しかし、その一方で、従業員ならではの資金調達の課題や、税務・法務上の複雑な注意点が存在します。特に、税金に関しては「落とし穴」とも言えるリスクがあり、安易な判断は後々大きなトラブルにつながりかねません。
本記事では、M&Aや事業承継を考える経営者の方に向けて、「従業員承継」の具体的な仕組み、そのメリットとデメリット(リスク)、そして会社を譲る際に特に注意すべき税金の落とし穴と対策を、どこよりも分かりやすく徹底解説します。大切な会社を、信頼する社員へと確実にバトンタッチし、未来へつなぐための実践的なヒントを提供できれば幸いです。
1. 「従業員承継」とは?その仕組みとMBO(マネジメント・バイアウト)
従業員承継とは、現経営者から、その会社の役員や従業員が事業や経営権を承継することを指します。これは、広義の「第三者承継」の一種であり、最も一般的な手法は**MBO(Management Buy-Out:マネジメント・バイアウト)**です。
1-1. MBOの基本的な仕組み
MBOは、会社の現経営陣(役員)や従業員が、既存の株主(現経営者など)から自社の株式を買い取り、経営権を取得する手法です。これにより、彼らは「雇われる側」から「経営する側」へと立場を転換し、オーナー経営者として事業を継続することになります。
一般的なMBOのスキームは以下のようになります。
- 後継者となる従業員が、MBOのためだけの新しい会社(SPC:特別目的会社)を設立します。
- このSPCが、金融機関からの融資や投資ファンドからの出資によって、自社株式の買収資金を調達します。
- SPCが、現経営者(売り手)から自社株式を買い取ります。
- SPCは、買収した会社を吸収合併するなどして、一体化します。これにより、後継者である従業員が、SPCを通じて会社の経営権を掌握します。
MBOは、従業員承継だけでなく、投資ファンドなどが既存経営陣と協力して事業の再建や成長を目指す際にも用いられる手法です。
1-2. 従業員承継が注目される背景
- 後継者不足の深刻化: 親族に後継者がいない中小企業が急増しており、社内の優秀な人材に目を向ける経営者が増えています。
- 人材の多様な価値観: 優秀な若手社員や中堅社員が、安定志向だけでなく「自分の手で会社を動かしたい」「起業したい」という意欲を持つようになっています。
- M&A市場の成熟: MBOを支援する金融機関や投資ファンドが増え、資金調達の選択肢が多様化しています。
2. 従業員承継(MBO)の「メリット」
従業員承継には、親族内承継や外部へのM&Aにはない、独自の強力なメリットがあります。
2-1. 会社の理念・文化を継承しやすい
長年会社で働いてきた従業員は、創業者の経営理念、企業文化、社内の雰囲気、そして従業員間の人間関係を深く理解しています。彼らが社長になることで、**事業の連続性が保たれ、会社の根幹にある理念や文化が揺らぐことなく次世代に引き継がれやすくなります。**これは、従業員のエンゲージメントを高く保ち、外部からの買収で生じがちな企業文化の摩擦を最小限に抑えることにつながります。
2-2. 従業員のモチベーション向上と安心感
「見知らぬ人」が社長になる外部M&Aとは異なり、日頃から顔を合わせ、共に働いてきた仲間が社長になることで、**従業員は雇用や待遇に対する安心感を持ちやすくなります。**また、「自分たちの会社」という意識が高まり、生産性やモチベーションの向上に繋がることも期待できます。将来的に、他の従業員にも「自分もいつか社長になれるかも」というキャリアパスを示すことにもなります。
2-3. 事業のノウハウ・顧客基盤の円滑な引継ぎ
後継者となる従業員は、すでに事業の中核を担い、日々の業務プロセスや顧客、サプライヤーとの関係性を熟知していることがほとんどです。そのため、**事業の引き継ぎが非常にスムーズに進み、承継後の経営リスクを低減できます。**顧客や取引先も、既存の担当者が社長になることで、取引関係に大きな変化がないと安心しやすく、信頼関係が維持されやすいでしょう。
2-4. 創業者にとっても心理的満足度が高い
長年心血を注いで育ててきた会社を、信頼する社員に託すことは、多くの創業者にとって大きな喜びです。「この会社と社員の未来を任せられる」という安心感は、単なる売却益以上の価値を持つことがあります。また、現経営者がM&A後の顧問や相談役として、一定期間、円滑な移行をサポートすることも可能です。
2-5. 地方企業の後継者問題解決にも有効
地方企業の場合、親族に後継者がいなかったり、都会に若手が流出したりする傾向が顕著です。しかし、社内に育成すべき従業員がいるケースは少なくありません。従業員承継は、このような地方企業が、外部に頼らず**「内なる人材」を後継者とする**ための有力な解決策となります。
3. 従業員承継(MBO)の「デメリット」と「リスク」
従業員承継には多くのメリットがありますが、その一方で、特に資金調達と後継者の能力面で注意すべきデメリットやリスクも存在します。
3-1. 資金調達が最大のリスク
従業員個人が、会社の株式を買い取るための多額の資金を持っていることは稀です。これがMBOの最大のリスクであり、乗り越えるべき課題となります。
- 後継者個人の資金力不足: 一般的なサラリーマンである従業員が、数千万円から億単位の買収資金を用意することは極めて困難です。
- 金融機関からの融資依存: 買収資金の多くを金融機関からの融資に頼ることになるため、後継者(またはSPC)が多額の負債を抱えることになります。返済計画が厳しく、新たな設備投資などに資金を回しにくい状況になる可能性もあります。
- 個人保証・担保のリスク: 金融機関からの融資に際し、後継者個人が連帯保証を求められたり、個人資産を担保提供したりする必要が生じることがあります。これは、後継者にとって大きな精神的・経済的負担となります。
- 創業者からの支援の難しさ: 現経営者がオーナーローン(売却代金の分割払い)などで資金面を支援することも可能ですが、これには創業者側の回収リスクや税務上の論点が生じます。
3-2. 経営者としての「能力不足」のリスク
優秀な従業員であっても、「現場のリーダー」と「会社の経営者」は全く異なる能力を求められます。
- 経営全般の知識不足: 現場の業務には長けていても、財務、法務、税務、人事、マーケティング、経営戦略といった経営全般の知識や経験が不足している場合があります。
- リスクマネジメント能力: 経営者は、事業全体のリスクを把握し、適切に判断・対処する能力が求められますが、これまで現場一筋だった従業員には、この視点が欠けている可能性があります。
- リーダーシップ・意思決定力: 全従業員を牽引し、時には厳しい判断を下すリーダーシップや、孤独な状況でも決断を下す強さが求められます。
3-3. 既存従業員との関係性の変化
- 「仲間」から「社長」への移行: これまで同僚だった相手が社長になることで、既存従業員との関係性に変化が生じ、一部の従業員が反発したり、距離を置いたりする可能性があります。
- 公平性の維持: 新社長が、かつての同僚に対し、公平な人事評価や待遇を維持できるかが問われます。
4. 会社を譲る際の「税金の落とし穴」と対策
従業員承継において、特に注意すべきは税金の問題です。安易な判断は、後継者となる社員に多額の税負担を強いることになりかねません。
4-1. 「無償譲渡」は絶対にNG!「みなし贈与」のリスク
「長年貢献してくれた社員だから、株式を無償で譲渡したい」と考える経営者は少なくありません。しかし、これは**最も危険な「落とし穴」**です。
- 「みなし贈与」とは:会社(非上場会社)の株式は、たとえ譲渡対価がゼロ円であっても、その会社に資産や利益があれば「時価」(税務上の評価額)があるとみなされます。この「時価」を持つ株式を社員に無償で譲渡した場合、社員(受贈者)は、時価と譲渡価格(ゼロ円)との差額に対し「贈与税」を課税されます。
- 高額な税負担:贈与税の税率は累進課税で最大55%と非常に高額です。もし会社の株価が高ければ、社員には想像もしないような多額の贈与税が請求され、その支払いが困難になる可能性があります。これは、社員にとって大きな負担となり、最悪の場合、承継自体が頓挫する原因にもなります。
- なぜ生じるのか:税務当局は、財産の無償または著しく低い価額での移転を放置すると、相続税や贈与税の課税を免れる抜け道になると考えています。そのため、実質的な財産の価値の移動があったとみなして課税するのです。
4-2. 「低額譲渡」も危険!「経済的利益」と所得税のリスク
無償ではなく、「時価よりも著しく低い価額」で株式を譲渡した場合も注意が必要です。
- 「経済的利益」と所得税:社員が時価よりも低い価額で株式を買い取った場合、時価と買い取り価格の差額が「経済的利益」とみなされ、給与所得として所得税(最高45%)や住民税(10%)が課税される可能性があります。この場合、会社には源泉徴収義務が発生します。
- 「著しく低い価額」の判断:「著しく低い価額」の明確な基準はありませんが、一般的には時価の50%未満などが該当すると言われています。判断はケースバイケースであり、税務リスクを伴います。
4-3. 社員への承継で発生しうるその他の税金の種類
- 社長(譲渡側)の税金:社員に「有償」で株式を譲渡した場合、売却によって得た利益(譲渡所得)に対して課税されます。非上場株式の譲渡所得は、**約20.315%(所得税・復興特別所得税15.315%+住民税5%)**が課されます。
- 相続税(相続による承継の場合):社長が亡くなり、社員(後継者)が遺言などにより株式を「遺贈」された場合、その株式にかかる相続税が発生します。
4-4. 税金の落とし穴を避けるための対策
社員への承継を円滑に進めるためには、これらの税金の落とし穴を避け、適切な対策を講じることが不可欠です。
- 最有力は「事業承継税制(特例措置)」の活用:この制度の特例措置は、親族だけでなく従業員(役員)も後継者として対象になります。要件を満たせば、後継者(社員)が自社株を取得する際に発生する贈与税や相続税の納税が100%猶予され、将来的には免除されます。これにより、社員は多額の税金を気にすることなく、経営に専念できます。ただし、複雑な要件があるため、必ず税理士などの専門家と綿密に連携し、計画的に進める必要があります。
- MBO(マネジメント・バイアウト)の活用と資金調達支援:社員が会社を買い取るMBOは、資金調達が課題となりますが、複数の方法を組み合わせることで実現可能です。
- 金融機関からの融資: 後継者が設立する新会社(SPC)を通じて、金融機関から買収資金を融資してもらうのが一般的です。
- 創業者の資金援助(オーナーローンなど): 社長が株式の売却代金を分割で支払う形にする「オーナーローン」という方法もあります。社長側には回収リスクや税務上の注意点があるため、必ず専門家と契約内容を詰める必要があります。
- 計画的な株価対策の実施:事業承継税制の適用を受けない場合でも、承継前に会社の株価を下げておくことで、後継者の税負担を軽減できます。
- 役員退職金の支給: 社長が会社から退職金を受け取ることで、会社の利益が圧縮され、株価の評価額が下がります。
- 不要資産の売却: 会社の事業に直接関係のない資産を売却し、会社の資産をスリム化することで、株価を下げられる場合があります。
5. 従業員承継を成功させるためのその他のポイント
5-1. 早期からの「後継者育成」と「権限委譲」
- 経営者教育の徹底: 候補者には、座学だけでなく、経営会議への参加、新規事業の責任者、経営者との同行営業など、実践的な経験を通じて経営者としての視点とスキルを習得させましょう。
- 段階的な権限委譲: 一気にすべてを任せるのではなく、徐々に権限を委譲し、成功体験を積ませながら自信をつけさせることが重要です。創業者は「教える」だけでなく「見守る」姿勢も大切です。
5-2. 外部専門家の積極的な活用
従業員承継、特にMBOは複雑なプロセスです。
- M&Aアドバイザー: MBOスキームの立案、企業価値評価、資金調達支援、交渉サポートなど、MBOプロセス全体を支援します。
- 税理士: 事業承継税制の適用支援、税務デューデリジェンス、売却益にかかる税務相談など、税金面をサポートします。
- 弁護士: MBO契約書の作成・レビュー、法務デューデリジェンス、法的リスクの評価など、法務面をサポートします。
5-3. 社内外への丁寧なコミュニケーション
- MBOの目的・意義の共有: 従業員や取引先に対し、「なぜMBOを行うのか」「MBOによって会社がどう変わるのか(あるいは変わらないのか)」を丁寧に説明し、理解と協力を求めましょう。
- 新社長からのメッセージ発信: 新社長となる従業員が、自身の言葉で経営への決意や今後のビジョンを語る機会を設けることが重要です。
5-4. 創業者の「引き際」を明確にする
- 潔いバトンタッチ: 承継後は、後継者が自身のリーダーシップを発揮できるよう、創業者は経営の第一線から潔く退く覚悟を持つことが重要です。
- 顧問契約などでサポート: 必要であれば、MBO後も顧問契約などを締結し、一定期間、新社長をサポートすることも有効ですが、過度な干渉は避けましょう。
6. まとめ:従業員承継は「想い」と「正しい知識」で成功へ
従業員承継は、後継者不足に悩む多くの中小企業にとって、大切な会社を未来へつなぐ非常に魅力的な選択肢です。会社の理念や文化、事業ノウハウを深く理解した信頼できる社員にバトンを渡せるという点で、他の承継方法にはない大きなメリットがあります。
しかし、その実現には、特に税金に関する「落とし穴」を避け、資金調達や経営能力の育成など、乗り越えるべきハードルも存在します。
- 「無償譲渡」は危険!「みなし贈与」で社員に高額な税負担を強いるリスクがある。
- 「事業承継税制(特例措置)」が最も有効な税金対策。
- MBOスキームと資金調達支援(金融機関融資、オーナーローンなど)を組み合わせる。
- 早期からの後継者育成と権限委譲、計画的な株価対策も重要。
- M&Aアドバイザー、税理士、弁護士など、各分野の専門家との綿密な連携が不可欠。
あなたの「会社を社員に託したい」という強い想いを実現するためには、これらの税務・法務の知識を身につけ、信頼できる専門家のサポートを得て、計画的に準備を進めることが何よりも重要です。適切なプロセスを踏むことで、予期せぬトラブルを避け、あなたの大切な会社を、信頼する社員へとスムーズに、そして賢くバトンタッチできるはずです。